ゴミを出すのに、燃えるゴミと燃えないゴミを区別するのが面倒だった。いや、いやで、やっていた。

ところが、暇つぶしに動物の動画を見ていたら、猫の虜になった。と同時に人間以外の動物が、いかに「か弱い」存在かが見えるようになった。その刹那から、命というものを意識するようになった。

そして、積極的にゴミの仕分けをするようになった。気づいてみれば燃えるゴミはほとんど無く、分別のほとんどがプラスチックか、ビニールゴミであった。世の中はプラスチックだらけ。仕分けは、いい加減であった。ゴミの割合が逆転したのだ。

そして、いつの間にか、今問題になっている海洋汚染を犯す側の人間になっていたのが、はっきりしたとき、嘆き、怒っていた自分が恥ずかしくなった。われわれがいい加減にやっていること、つまり、命のバランスの配慮の欠如が、結果的に弱いものを死に追いやっていくようになる。世界のすべてのものが身近に繋がってきている今の時代では、十分に起こりえるのである。人間がいい加減にしていることが、どこかで、その歪みとなって噴出するのは本当だろう。

それは将来、人間が、人として、何の哲学もなく、欲望の赴くままやって、命の配慮という視点が欠けていれば、結果として住みにくい残酷な世の中が身近に迫って来るようになることを示唆しているのではなかろうか。