僕は,その家の飼い主に許可なく,猫に餌を与えた。それまで,その猫を何度も見かけたが,余り気にも留めていなかった。僕が近づくと,ガレージのシャッタ越しに,すりすりしてくれた。その猫は,冬も夏もガレージの中で飼われているのだ。どんなに,暑かろう,寒かろうとだ。胸が締め付けられた。

 この黒猫は,これと言って取り柄のない猫であった。しかし,この夏の炎天下で,滝のように流れる汗にうんざりしながら,ふと見たその黒猫はやせ細って,変わり果ててしまっていた。ほっとおけるはずがなかった。

 昼間は,飼い主は留守であった。僕は体に滋養になる餌を選んで買い与えた。猫は,シャッタに伸びをして催促をした。そして,その餌を貪り食った。

 この猫は,一度,触ろうとして,猫パンチを喰らわされた過去がある。僕の右手の甲は,血で赤くなった苦い思い出だ。しかし,今,眼前にいる黒猫は,この暑さの中で命がむき出しになっている。僕は,思わず黒猫が元気になれという思いで猫に触れた。その刹那に,僕は,命を感じてしまった。そして,触れた黒猫の毛の下に流れている血液の温もりは,僕の目頭を熱くした。この小さく波打っている心臓の鼓動は,止めてはならないのだ。

 しかし,飼い主に,餌やりを注意された今,それを無視することが出来ない。僕に何が出来るのであろうか。

 今,僕は,そのシャッタの前を恐れる人のように通り過ぎながら,黒猫の命が,一日一日、つながっていくことを祈るしか出来ない日々を送っている。