デカルトは,ボン=サンス(物事を正しく判断し,真と義を識別出来るもの)は,神から既に,生れたときから,人に授けられていると言う。我々は,物事を正しく判断し,真と義を識別出来る,このことは,この世で最も人間に平等に分配されているという。

 真偽の基準が教会にゆだねられている,偏った時代に,このボン=サンスに彼は真偽の基準を求めた。それからそれへと真か偽かを追求すれば,普遍的な心理に必ず遭遇するというのだ。特に,デカルトは,それを数学に求めた。確かに,数学の真理は,人間の存在如何に拠らず存在する。それは,数学には「証明」という方法が存在するからだ。しかしながら,1+1=2という簡単な計算すらのは,普遍ではない。

 「10才で,数検で一級とった中学生が,1+1=2であるためには,その前提となる定義が必要です。その定義のもとにおいてのみ112は存在する」と答えていたのには,たいへん驚いた。1+1=2を答えるのにその定義は遥かに困難を極めるらしい。そこには一つの反例さえ許されないのだ。とすれば,この定義とは,如何なるものなのであろうか。それ故に,かのようにである。1+1=2が存在するかのように。正義が存在するするかのように。神が存在するかのように。かのようにである。

 定義そのものは,神が授けたものか,それとも人間のみに通用するものなのであろうか。もし後者ならば,人間とは,かのような存在に過ぎないのかも知れない。