ロシアのウクライナ侵攻,そして台湾有事の危機が迫りつつある,今,いつ日本もウクライナのようになるか判らない。

   戦争には関心がなかったが,ただ,気になっていることが,一つだけあった。NHKスペシャルで,1942年から1943年で起こったガダルカナルでの戦争を特集していたのだが,それを見ながら気になっていることを考察した結果,ある考えが,ふと浮かび,ある結論に帰結した。
  ガダルカナルで,何故,あれほどの日本人が死ななければならなかったのか。何がそうさせたのか。

 新渡戸稲造は,ラブレー氏と散歩の途中,「西洋には精神的な支柱として,キリストという神があるが,日本人にとって,それに代わるものは何ですか。」と,問われたとき,直ぐに,言葉を返す事が出来なかった。彼は深く恥じ入り,それを追求するようになる。それが、形になったのが武士道だ。その武士道の中で,義・勇・仁・礼・名誉・忠義・切腹・刀 等,14項目を掲げている。
    武士の時代は余りにも長く続いたので,新渡戸が武士道として,掲げるこの義,勇,仁,礼,等の魂は,武士だけでなく,庶民の心に深く根付いたに違いない。現代に生きる者としても,それらがどんなに薄れてしまっていても,これらを否定することが出来ない。確かに,これらは日本人の精神的支柱であることは事実だろう。この武士道は,武士というものが存在して以来,永遠と受け継がれて来たもので,新渡戸は,ただ,これらを言葉にして,明確にしたに過ぎないのである。それ故に,武士道は,新渡戸の本は読まなくても自然と理解できる(実際,武士道を読んだが,想像の域を超えるものではなく,新しいものを学ぶということはほとんどなかった。)

 しかし,これを読み解けば読み解くほど,ある疑念にぶち当たった。それは,この武士道が誰のために生まれたのかということだ。キリスト教は,明らかに,民衆のためであろう。では,武士道はと言うと,庶民のためではないことは明白である。では,武士のためかと言うと,そうでもない。それは,一部の武士,つまり,主君のためだ。義,勇,礼,名誉,忠義,切腹等の武士道は,主君が家臣を治めるのに最も都合のよいものではないだろうか。義,勇,礼,名誉,忠義を身につけた家臣は,主君にとって,有り難いと同時に,容易に支配しやすいもので,穿った見方をすれば,主君にいつでも命を投げ出すことさえ名誉あるものにしてしまう思想ではなかろうか。

  アメリカのセオドア‐ルーズベルトは,新渡戸稲造の書いた「武士道」の愛読者であった。そして,彼は,大統領という支配する側の者である。彼の視点からは武士道の魂を持った国民,兵士は扱いやすい存在だと想像するに難くなかったであろう。そして,逆に,このような魂を持ったものを敵に回すことこそ恐ろしいことだと想像したに違いない。アメリカが,戦後の日本教育の現場からこのような思想を排除しようとしたのは,当然のことであった。

 ガダルカナルでは,日本兵2万人あまりが連合軍との戦いで戦死し,残りの1万5千人が,餓や病気のため死んだ。許し難いことは,その戦いで軍幹部たちは,ガダルカナル島から避難し,安全な場所から軍の指令を送っていたという,あきれ果てた状況であった。これからも推察できるように,日本は勝つ見込みが全くなかったのである。戦って死ねば,正に,犬死であった。他国の人間ならば,勝てないと分かれば,早々に降参して,命乞いしたに違いない。だが,ガダルカナルの日本人はそうしなかった。戦死するか,餓死するかの選択肢しかなかったのに。これは,やはり,目には見えない力が働いたとしか思えない。義,仁,勇,礼,忠義,つまり,武士道の魂がそうさせなかったのである。日本兵が次々と,自分の命を烈しく虚しいものにして,鉄砲1丁だけを持って,重戦車に守られた連合軍に,次々と突っ込んでくる,この状況を,敵の指揮官にはまったく理解できなかった。これこそは,精神的支柱が,武士道によるのか,キリスト教による違いなのではないだろうか。武士道には,14章のものから構成されているが,どこにも個人の命が大事であるという記述がどこにもない。これが,唯一武士道には,欠けているのである。

 自分は,これらのことが,カダルカナルで,多くの人々を犬死させたと原因の一つであると結論付けた。ただ,武士道を否定しているわけではない。武士道の魂を身に付けた人には,首を垂れるしかない。そのあとをついて行きたい衝動に駆られるであろう。今の日本でそのような人に出会うことはない。この武士道の魂が懐かしい,美しい日本を作ったのも事実なのだ。

 しかし,カダルカナルのような状況下では,武士道の精神が,ガダルカナルの日本人を,個人という個性を全く埋没した虚しいものにしてしまったということも本当だ。武士道の中に個人の命の尊さが少しでも謳われていたなら,日本に,デカルトやジョン=ロックがいう個人主義が,根付いていたなら,カダルカナルの戦争は,全く違ったものになっていただろう。