人は、長く生きると、自ずと知識〈ここで言う知識とは、対象物から得られたその人独自の経験を通して出来上がった観念である。また、対象物というのはその人が関わった人・もの・言葉などすべてのものである。〉 が身につく。そして、その一つ一つに、意識的に或いは無意識的に価値を与えるようになる。別の言い方をすれば、その人独自の観念を持つようになる。そして、その観念のうちには快・不快が付着する。

「海」という言葉は万人には共通だが、その「海」の観念は、その人の経験そのもので、他の人と共通する観念は何一つない。思うに「海」の観念を探ってみると、実際に見てきた海、映像や雑誌などあらゆる情報から得たもので、自分自身の感性が自分の観念として取り込んだものである。よって、その人固有のものである。また、人から海の話を聞くかも知れない。しかしそれは、言葉だけが共通であって、観念を共有しているわけではない。つまり、私とあなたの「海」は非常に似ているけど、同じではないのである。では何故似ているかというと、見ている対象が同じだからに過ぎない。

高校生のころ、少し真面目な文を書くときや、数学の問題を解くときなどは、赤で書くのが好きだった。今でも、その気持ちがときどき頭をもたげてくる。その原因を探ってみると、小学生のころ、いつも主要科目すべてで満点を取る友人がいた。彼は物静かな人で、自分の成績をひけらかすタイプではなかった。そういう彼に一目おいていた。そんなとき、彼のノートを偶然、目にした。そこには、赤いインクで書かれた文字が整然と品よく並んでいた。それを見てしまったとき、強い衝撃が走った。そのとき以来、赤い文字の観念は、快になった。そして、それは深くこころに刻まれたのである。人の行動を起こさせる原因は、この快・不快が大いに関係しているのである。その証拠に、赤で文字を書くときと、黒で書くときの心持ちが明らかに違うのである,何かこころが覚醒したような気になるのである。

 人間の行動原理は、観念のうちにある快・不快(行動原理の大きな要素の一つ)によって左右されるのは事実である。意識の部分は無意識のほんの一部にしか過ぎない。故に、今、目覚めている意識が、行動原理のすべてであると錯覚してはならない。お金の魅力に取りつかれているものは、現在の意識、つまりその人の取るその刹那の行動を、金を儲ける方向に無意識が知らず知らずに導いているのである。我々は、無意識のうちにある、ポテンシャルエネルギーの最も高い快の意を組むようにように行動するのである。高校生のころ、文章を書くとき、何故か赤色に惹かれたのは、小学生のときのそれであった。

哲学するとはどういうことかというと、その一つは,快・不快の付着した自分自身の観念をもう一度、精査することである。我々は、自分独自のベクトルや快・不快によって構築された観念を、可能な限り俯瞰して眺めてみる必要があるのである。そして、快・不快を超えた、より客観性の深い観念を再構築するのである。つまり、快・不快に左右されるようではダメなのである。科学の発見も、既成概念を疑うことによってもたらされることは少なくない。数学は、その観念の内に快・不快の介入を一切許さない世界である。そこには、厳密な証明が存在するからである。我々は、その定理の前には首を垂れるしかない。ただ、ニュ-トン力学がマクロの力学の世界では真実であっても、量子力学では通用しないことを知っている。アインシュタインが量子力学を認めず、「神は、サイコロを振らない」と言ったのも不快のなせる業なのかも知れない。アインシュタインに、少しでも量子力学に快を持つ機会があれば、違ったものになっていたかもしれない。それ故に、土台となる定理(例えばニュ-トン力学)に対しての疑念を、胸の奥底に抱いていることは、必要なことかも知れない。

しかし、科学以外の分野の観念には、数学のようにその観念が正しいと証明できる、定理や公理は何一つ存在しない。「人殺し」の観念にしても、これが最大級の不快だとしても、悪であるという証明は誰一人として出来ないのである。だからこそ我々は、この無限に己の中に存在する観念に対して推察する感性を、研ぎ澄ましておく必要がある。何が正しいのか、正しくないのか証明する定理がない限り、全てが闇の中に投げ込まれてしまうのである。それ故に、この状況から抜け出す方法は、冷静に、客観的に、自分の行動原理がどの快・不快の影響を受けているのか、一度、省察するのがその一つではないだろうか。