(しろ)さんとの出会いは、彼女のこころを少しずつ変化させた。ふと気がつけば白さんが来ていないか、窓の外を覗く様になっていた。弱々しく、ちょこんと座った姿が脳裏から離れないのである。出会った日からデッキに餌を置くようにした。不思議と彼女が秘密基地にいる間は現れなかった。しかし、次の日来ると餌は必ず無くなっていた。ある日、彼女は白さんのために犬小屋ならぬ猫小屋を用意して、その中には少しでも寒さを和らげる猫用のベッドと、時間が来れば自動で餌が出てくる機械を一緒に入れて置いた。そして、白さんはもうエサの心配はしなくていいのだと独り合点していた。

ある日、昼の時間ではなく、夜に秘密基地に訪れたとき、白さんではない見慣れない黒い動物が、驚いた様子で猫小屋から飛び出し逃げ去った。白さんが食べているものと確信していたので、衝撃を受けた。ますます不憫に思えて、自分の軽薄な思い込みを恥じた。そして、夜も監視できるように監視カメラを備え付けた。そして,二・三日経ってその録画を再生してみると、そこには衝撃的な映像が写っていた。そこにいたのは猫ではなく、ハクビシンやテンであった。白さんの置かれた環境が、如何に苛酷なものであるか思い知ることになった。この極寒の中の白さんは、これらの動物と僅かな餌を争っているのかと想像すると,胸が締め付けられた。

ところが、突然、昼間に白さんは現れるようになった。白さんは、ドアから最も離れたデッキから部屋の中を覗ける位置に品よくお座りして、彼女を見ているようになったのだ。彼女の心は小踊りした。そして、白さんにその感情を見透かされぬよう冷静にふるまった。デッキに繋がるガラス張りのドアをゆっくり開け、好物と思って作ったエサを、音を立てないように静かにデッキに置いた。食べて欲しい一心だった。すると、彼女がその場を離れたその刹那に、白さんはすさまじい勢いでエサに飛びついた。そして、あっという間にエサをきれいに平らげてしまった。それは、もう何日もの間エサにありついてないことを十分に証明していた。この状況は何日も繰り返された。すると、彼女はデッキのドアを猫がやっと入れる隙間を開けて、内側にエサを置くようにした。寒気は容赦なく彼女を襲った。快適な部屋は、防寒着なしではいられなくなってしまった。しかし、そのかいがあって、白さんはデッキのドアの近くに座るようになった。彼女が白さんの視界から消えると、凄く警戒しながら抜き足、差し足のまるでスローモーションの動きをさせて部屋の中に侵入して来た。そして、そばに誰もいないと確信すると、あっという間にエサを平らげて一目散にその場から逃げ去った。しかし、白さんが部屋の中に入って来たという事実は彼女をひどく満足させた。

そして、さらに作戦を変えた。今度は、白さんがドアのそばにくることは確実になったので、来たらドアを開けてエサを与えるようにした。すると、白さんは逃げなかった。初めて鳴いた。エサを下さいと鳴いたのだ。少し濁声であるが、それは確かに白さんの鳴き声であった。それは、彼女が正に白さんから聞きたかった声だった。彼女の母性は「うう、」と疼いた。不思議と白さんは、エサを食べるまでデッキから離れることはなかった。彼女がエサを手に持っていること確信すると、白さんはドアの内側まで入るような仕草をした。それで、いつもより近い場所で白さんを観察することが出来た。白さんの毛並みは毛繕いが行き届いて白い光沢を放っていた。何故か、それが崇高なものに思えた。しかし、よく観察すると、模様だと思い込んでいた白さんの耳は異常なものであった。血管が浮き出て、少し爛れていたのだ。これは普通じゃない、と恐れた彼女は、その耳を写真に取って、急いで獣医に見せた。それは、癌であった。

 その後の彼女の行動は素早かった。猫を捕獲するための道具を買い揃え、猫を保護する団体に電話をかけ、白さんを保護するための日程を決めた。しかし彼女の顔には、保護に失敗したら、もう二度と白さんは来なくなるだろうという不安の色が微かに読み取れた。しかし、彼女の後姿は張り詰めたように凛としていて、目の奥底には強い覚悟が読み取れた。

ほどなくしてその日はやって来た。幸いにも、捕獲をお願いした人は、女性で落ち着きのある人だった。慣れた手つきで、彼女に代わって淡々と捕獲の準備をしてくれた。この一連の仕草さは、いまから何か楽しいことが起こるのではないかと錯覚する程だった。そして、いつものように白さんがやって来た。これも幸いなことに、エサに貪欲な白さんは、あっという間に捕獲することが出来た。そして、直ぐに病院に駆け込んだ。彼女は、何とか白さんの命を助けたい思いから手術することをお願いした。成功するか否かは五分五分だった。そして、手術は無事、成功したのだ。

 今、白さんは、秘密基地の中にいる。その人が、天井近くに作ったキャットウォークの上か、,目に入るすべてのものを見下ろしている。手術で、すべての耳を失った白さんの下から見えるフォルムは、正にフクロウにしか見えない。そして、それは神々しかった。

白さんとその人の距離は決して、縮まることはない。ただ、白さんは、その人が優しい人だと言うことは分かっている。その証拠に、その人が手にエサを持っている時だけ、正にその時だけ、豹変するのである。天界から一目散に下界へ降りて来て、声を出してエサをおねだりするのだ。ただ、触れさせることはなかった。食べ終わるや否や、定位置に飛んで帰り、全てが元通りに静まり返ってしまう。しかし、その人は、このことを理不尽とは思わない。白さんの過酷な運命がそうさせているのだと思い、抱き寄せて頬ずりをしたいのだが、それが叶わないのが口惜しいのである。

 春になった。彼女は、ウッドデッキに繋がるドアを開けた。すると、網戸から春の匂いを伴った柔らかな風が彼女を包んだ。そして、この春の息吹を感じながら、その人は、キャットウォークから彼女を見下ろしている白さんとのこの関係を、大切にしたいと心から願った。